Ⅰ-d-4 「匕」
Ⅰ-d-4-ⅲ-ア 【此】 *ts'iĕr➔ts'iĕ(呉音・漢音シ)
[字源]左右の足がちぐはぐになって前のめりになって傾く情景 [コアイメージ]ちぐはぐでそろわない [意味]近い物事を指す代名詞(これ)
*図は左から此の甲骨文字・金文・篆文。
[解説]
此は「止+匕」に分析する。止は足(foot)の形。匕は「人」の鏡文字である。鏡文字は反対のイメージを表す造形法のテクニックである。正常な姿勢の人に対して、変わった姿勢になることを示す。したがって此は正常に歩いて来た足(左右交互に踏み出して歩いて来た足)が何かにつんのめって体勢が傾く情景である。正常に立つ姿勢を|で表すと、傾く姿勢はᒥの形や、∠の形や、∧の形になる。直線が折れ曲がると上下の距離は短くなる。「短い」は「近い」というイメージにもなる。また∧の形が連鎖すると∧∧∧∧(ぎざぎざ)の形になり、「ちぐはぐ」「そろわない」というイメージになる。「近い」というイメージから、近い物事を指す用法が生まれ、「そろわない」というイメージから同源語のグループが形成された。
Ⅰ-d-4-ⅲ-イ 【紫】 *tsiĕr➔tsiĕ(呉音・漢音シ)[字源]二つの色が入り混じる情景 [コアイメージ]ちぐはぐでそろわない・入り混じる [意味]むらさき
*右図は紫の篆文。
[解説]
色の「むらさき」はムラサキという草を染料にしたと言われる。ムラサキという草の名が先にあって「紫」という色の名が出たのか、それとも逆か。問題のあるところである。草のムラサキは茈と書く。ところが紫という色の名が早く出現する。
①原文:惡紫之奪朱也。
訓読:紫の朱を奪ふを悪む。
翻訳:[現代ファッションで]紫が朱色を排除するのが許せない。・・・『論語』陽貨
②原文:其下多茈草。
訓読:其の下茈草多し。
翻訳:その[山の]のふもとにはムラサキが多い。・・・『山海経』北山経
①は色の名の「むらさき」、②は草の名のムラサキである。『論語』では二篇で紫への言及がある。一つは紫色を肌着に用いないこと、もう一つは紫色への嫌悪感である。なぜ孔子は紫色を嫌ったのか。それは正色の青と赤の混ざった中間色だからとされている。孔子は純正な色を尊重したようである。
古代漢語で「むらさき」を*tsiĕr(紫)といったのはムラサキという植物の名に由来するのではなく、色が混ざっていて不純であるという色の性質に由来する。草の名は「紫」という図形が定着してから、糸を艸に換えて生じた(後に茈草は紫草とも書かれるようになった)。
紫の字源は「此(音・イメージ記号)+糸(限定符号)」と解析する。此は上で述べたように「ぎざぎざ・ちぐはぐでそろわない」というイメージがある。これは「いくつかのものがちぐはぐに入り混じる」というイメージに展開する。糸は染色と関係があるから、色の名を指示するための限定符号である(ほかの例に、紅・緑・紺など)。かくて紫の図形的意匠は「二つの色(青と赤)がちぐはぐに(不純に)入り混じる色」ということである。
〈同源語のグループ〉
d-4-ⅲ-ア 「此」 本項。
d-4-ⅲ-イ 【紫】 本項。
d-4-ⅲ-ウ 【雌】 次項で詳述。
d-4-ⅲ-エ 【柴サイ】 「此(音・イメージ記号)+木(限定符号)」。此は「ぎざぎざでそろわない」のイメージ。木を不ぞろいに束ねる情景。小さな雑木や薪にする。木しば。
d-4-ⅲ-オ 【砦サイ】 「此(音・イメージ記号)+石(限定符号)」。此は「ちぐはぐでそろわない」のイメージ。石をちぐはぐに組む情景。とりで。
d-4-ⅲ-カ 「疵シ」 「此(音・イメージ記号)+疒(限定符号)」。此は「ぎざぎざ」のイメージ。ぎざぎざした打ち身・傷。
d-4-ⅲ-キ 「觜シ」(=嘴) 「此(音・イメージ記号)+角(∧の形。比喩的限定符号)」。此は「∧の形や∨の形に食い違う」のイメージ。上下が∧∨の形を呈する鳥のくちばし。